前回は、私たちが世界を理解するために「分ける」というハサミを使っているお話をしました。
実は、この「分ける」ことと「名前」の関係について、2600年も前に老子が『道徳経』の第1章で、驚くほど鋭い言葉を残しています。
1. 呼び名がついた瞬間に、世界は「分かれる」
道徳経の冒頭には、こんな一節があります。
「名づけられる名は常の名にあらず」 (本当の真理には、決まった名前なんてつけられないんだよ)
私たちが「これは山だ」「これは私だ」と名前をつけた瞬間、それは宇宙という大きな全体から切り離された「ひとつの部品」になってしまいます。 名前をつけることは便利ですが、名前をつけた途端に、そのものの「本当の姿(無限の広がり)」は見えなくなってしまうのです。
2. 「無」と「有」は、同じ場所から生まれる
老子はこうも言っています。
「名なきは天地の始め、名あるは万物の母」
- 名なき世界(無):まだ何も分けられていない、真っ白なキャンバス。これが宇宙の始まりの状態。
- 名ある世界(有):名前をつけて分けることで、たくさんの「もの」が生まれる。それが私たちの暮らす、賑やかな物理世界。
分けること、「境界線」を引いて名前をつけることで、1、2、3……と、たくさんの存在が誕生するのです。
3. 「分けられた世界」で遊び、「分けない世界」を観る
老子は、この両方の視点を持つことが大切だと言っています。
- 「欲」を持って、分けられた世界を味わう:名前のある世界(物理世界)で、「私」や「あなた」という個性を楽しみ、泣いたり笑ったりすること。
- 「欲」を捨てて、分けない世界を観る:名前や境界線を手放して、すべてが一つに溶け合った「大きな和(わ)」、つまり「空」を感じること。
4. 魂は「名もなき世界」の住人
物理世界で「名前」という服を着て、個性を演じている私たち。 でも、その射影の元である「魂」は、名前で分けることのできない「名なき世界(情報空間)」の住人です。
私たちが「分ける」というハサミをそっと置いて、自我というプロジェクターのスイッチを切るとき、そこには名前も境界線もない、ただただ深い光が広がっています。
老子はそれを**「玄(げん)」**と呼びました。 深くて、暗くて、でもすべてが生まれてくる不思議な入り口。
「分ける」ことでこの世界を楽しみ、「分けない」ことで宇宙の静けさに還る。 数学も、人生も、その二つの間を行ったり来たりする、素敵な旅なのかもしれませんね。

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